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井原市の観光情報

> 観光情報 > 史跡・名勝 > 歴史・文化 > 桜渓塾跡公園
桜渓塾跡公園(おうけいじゅくあとこうえん) TEL:0866-62-8850

桜渓塾跡公園嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が伯父山鳴大年・山成直蔵の協力によって簗瀬の桜に漢学塾(桜溪塾)を開き、青少年の人材育成のために大いに尽くしました。桜溪塾の朗廬を尋ねて全国から漢学者、漢詩仲間、志士たちがやってきて賑わいました。
嘉永6年(1853)、一橋藩代官所江原役所は一橋藩立郷校設立のため朗廬を招き、翌年に興譲館と名づけられました。朗廬は15年間興譲館で師弟育成に当たり多くの人材を世に出しました。 大正2年(1913)、桜溪遺跡保存会によって記念碑の建立、草廬の補修、園庭の植樹が行われ、以後桜溪塾は興譲館館祖の子弟教導の地として保存されています。

外観 外観  
場所データ

■詳細情報
名称 桜溪塾跡公園 アクセス ■車:山陽自動車道笠岡ICより北へ40分
■電車:井原鉄道井原線井原駅よりタクシーで15分
■駐車場:普通車15台
所在地 岡山県井原市芳井町簗瀬
問合せ先 0866-72-1324(芳井歴史民俗資料館)
0866-63-3144(井原市文化財センター)
開園時間 随時
入園料 無料


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阪谷朗廬(さかたにろうろ)

阪谷朗廬1822生〜1881没。
阪谷朗廬は現在の私立興譲館高校(井原市)の初代館長として知られています。
生地は現在の井原市美星町九名で家は代々造り酒屋で阪谷はそれにちなむようです。

朗廬は6歳のときに母に伴われて父の赴任先である大坂に行きました。
そして奥野小山について四書の句読を受けたのですが、小山は朗廬を愚鈍と決めつけたそうです。
そういったことから、朗廬は大塩中斎(平八郎)の門に転じました。中斎は、「この子は他日必ず名をなすであろう」と予言しました。
その後朗廬は父について江戸に行き、どんどん学業を伸ばし古賀洞庵の門に入りましたが、すぐに塾頭の座に着きました。
そして一論文を書いて小山に送ったところ、小山は驚いて自分の鑑識のなかったことを深く恥じたという逸話が残っています。

朗廬は機会のあるごとに諸国を回り、旅行すれば必ず詩文を残しました。
また同時に、津和野、津山、広島、岡山の各藩から度々誘われたのですが、「国に老いた母あり」と、辞して応じませんでした。

26歳のときに郷里に帰り、しばらく母の看病をしていましたが、叔父の山鳴大年の援助もあり現在の芳井町簗瀬桜に塾を開き桜溪塾(さくらだにじゅく)と名付け、育英の業を始めました。桜と九名とは数里離れていましたが、朗廬は毎月帰っては母を慰めていました。
九名村は当時一橋の領であったのですが、時の代官友山勝治は朗廬の学徳の高さを知り、領内の教化の実を上げようと考え、朗廬や領内の者とはかり、寺戸村に教諭所を設け、これに朗廬を迎えることになりました。これが現在の興譲館高校です。

朗廬の学問は単なる知識の習得ではなく、実に道徳の実践でした。そして理は人倫の理であって道に適っていなければならず、学問は公議の政治であり、倫理であり、さらに人の生活文化そのものであると高唱しました。
当時の興譲館は、水戸の弘道館、萩の明倫館と並んで海内三学館と称せられました。

慶応2年(1866)一橋慶喜は、京都へ朗廬を呼んで、育英の功績をたたえ、銀五枚と俸禄五人扶持を授けようとしましたが、彼はこれを固辞し、それを館費にしてもらうようにお願いしたそうです。
なお慶喜は彼を家中に任用して枢機にあたらせようとしましたが、これも固辞して受けなかったそうです。

その後も広島藩などから招聘されましたが全て固辞し、家塾では師弟の育英にあたり、藩校では教書を高じています。そして、月に数度は岡山藩の藩校である閑谷学校に出向いて講義していたようです。

後に明治政府に出仕し、陸軍省、文部省、司法省と歴任しました。しかし、それは彼の性に合っていたとはいえず、老いと病を理由に職を辞して、明治14年(1881)1月、60歳にして没しました。

※阪谷朗廬の肖像は「井原市文化財センター」よりお借りしました。
※本文は「崑山片玉集」より参照・転載しました。


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