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池田筑後守長発の像(いけだちくごのかみながおきのぞう)

池田筑後守長発の像

井原小学校の敷地にはもともと、江戸時代に領主であった旗本池田家によって建てられた陣屋(役所)がありました。この敷地内に学問所を建てる計画が挙がり、10代目の池田筑後守長発は自ら「心学館」と名づけ、その思い入れは相当のものでしたが、途中病に伏しその願いは叶いませんでした。
正面玄関の東側にある庭園「冬園」には、昭和61(1986)年に長発の生誕150年を記念して、陣屋跡を示す石碑と池田筑後守長発の銅像が並んで設置されました。

※学校施設のため、観光での訪問はご遠慮ください。

基本情報

所在地岡山県井原市井原町1113(井原小学校内)

アクセス

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アクセス

【車】山陽自動車道笠岡ICより約30分

【電車】井原鉄道井原線井原駅よりタクシーで10分、徒歩20分

池田筑後守長発(いけだちくごのかみながおき)

池田筑後守長発 池田筑後守長発(いけだちくごのかみながおき)は天保8年江戸で生まれました。ちょうどアメリカ船モリソン号が浦賀に現れて大騒ぎになっていた年で、出生の時から苦難の人生を暗示しているかのようでした。
長発は、頭脳明晰で、幼時より読書を好み、幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)に入学しましたが、成績は常に抜群で、和漢洋の学問に優れ、有数の人材として将来を属目されていました。卒業すると同時に幕府に仕え、重職を歴任し外国奉行に抜擢されました。
この頃の日本は、尊皇・佐幕・開港・攘夷と国論が分かれており、和親条約・通商条約を外国と結び開港の方針をすすめてきた幕府も朝廷方の力に押され、再び港を閉ざし攘夷の実行をも促されるような状態になっていました。
このようなとき幕府は、攘夷論を鎮めるために再び横浜港を鎖すように交渉すると共に外交上の問題を解決するために、フランス・オランダ・イギリスなどの欧州各国に使節を派遣することにしました。この難事業に池田長発が任じられ正使に選ばれました。ときに長発が27歳の時でした。
こうして文久3年(1863)12月29日、第三回幕府の遣外使節として池田長発以下35名はヨーロッパに向けて旅立ちました。

長発は、パリで交渉にあたりましたが、当初の予想どおり不調におわり、鎖港以外の協定を結び、他国との交渉を打ち切り、条約締結の翌日にパリを出立し元治元年(1864)7月18日に横浜に帰国しました。
長発は幕府に対してパリの会談の様子を報告し、海外の情勢を説き、日本自立の意見書を提出しました。しかし、幕府は交渉を失敗した長発を蟄居、隠居を命じました。その後、長発は許され軍艦奉行に任命されましたが、 長発は健康に恵まれず、職を辞して隠居・出家して、一切の世事には関わりませんでした。そして、明治12年(1879)9月12日、43歳の働き盛りをもって悲運の生涯を閉じました。
ちなみに、この遣外使節がピラミッドの前で撮った記念写真が残っています。

※池田長発の肖像は「井笠路探訪」より転載しました。
※本文は「崑山片玉集」を参照・転載しました。