観光情報
内山完造生家跡(うちやまかんぞうせいかあと)
明治18年(1885)内山賢太郎の長男として生まれ、28歳のときに上海に渡って大正6年(1917)に上海内山書店を開きました。誠実闊達な人柄が中国人の心を捉え、魯迅(ろじん)・郭沫若(かくまつじゃく)などの文化人と親交を深めました。
日中関係のもっとも険悪・困難な時期に、上海を訪れる日本人の案内役をし、日本の作家たちと中国文学者との交流の場を提供しました。魯迅・郭沫若・郁達夫らとの交友を通じて真実と人道主義を追求し、日中両国の文化交流と友誼のために橋渡し役を果たしました。
戦後は日中友好・国交回復実現のために心血を注ぎ、先頭に立って活躍しました。
昭和34年(1959)中国人民対外文化協会の招きで訪問中に北京で74才の生涯を閉じ、上海に墓碑が建立されています。
基本情報
所在地 | 岡山県井原市芳井町吉井 |
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TEL | 0866-72-1324(問合せ先:芳井歴史民俗資料館) |
TEL | 0866-63-3144(問合せ先:井原市文化財センター) |
入館 | 不可(記念碑、案内看板のみ) |
アクセス
アクセス |
【車】山陽自動車道笠岡ICより北へ35分 【電車】井原鉄道井原線井原駅よりタクシーで15分 |
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駐車場 | 無し |
内山完造(うちやまかんぞう)
1885生~1959没。
内山完造は明治18年(1885)吉井村(現井原市芳井町吉井)に生まれました。
五歳のとき吉井村化成尋常小学校に入学したのですが、幼少の頃からわんぱくで、このわんぱくぶりは年を追うごとに発揮されました。
明治27年精研高等小学校(井原町にあり、一町十二か村立で後月郡ただ一校の高等小学校)に入学しました。
明治30年4月精研高等小学校四年生に進級したのですが、完造の不良ぶりは学問よりも商売人したらよいのではないかという意見が親族間に強まり、ついに大阪に奉公に出ることになりました。もちろん、完造自身も喜んでそれを承知しました。
19歳頃の完造の思想傾向は軍国謳歌となり戦勝祈願のために神社仏閣を回るなど、完造は支那革命に投じてみたい考えを持ってきていました。
その後、勤め先の先行きを見た完造は27歳のとき自らいとまをもらい、新聞配達をする傍ら教会にも出入りするようになりました。
明治41年1月31日京都教会の門をくぐりました。これは完造がキリスト教会に入る第一日であり、また完造の生涯の革命の第一日でもありました。
28歳の春、京都教会の牧野牧師の紹介で、参天堂に入社し、中国との縁を結ぶ第一歩を踏み出しました。 完造の仕事は参天堂の目薬の中国での広告と販売でした。
1年足らず揚子江を上下する間に、中国の「深さ」に魅せられ参天堂の社長宛に「薬の広告はまだおぼつかないが、中国に関しては何かを得る」と手紙を書いて、自らの中国に対する認識不足を恥じています。
大正5年1月クリスチャンの井上美喜子(花甲録ではみきとなっている)と結婚し上海に定住しました。 完造は相変わらず薬の売り込みに中国大陸、台湾と出歩いていました。留守の間、美喜子が日本語の聖書が少ないことに気づき日本から聖書と賛美歌を取り寄せて在留邦人に売ったところ、意外に好評だったので完造も乗り気になりました。これが内山書店の誕生で大正6年のことでした。
薬を販売のかたわら、文学書、専門書などを仕入れ、中国人からの依頼もあって、大正12年には本格的な店舗を構えるまでになりました。
この頃から「中国に骨を埋める」姿勢が本物になり、交際範囲も急速にふくれあがり、日本人だけでなく魯迅ら「新中国の革命文学の作家達」とも本を通じて知り合いました。
大正4年から12年まで「排日貨」が行われ日本の商品はほとんど売れなかったのですが、完造のあつかった目薬と内山書店だけは例外でした。
他の店は、日本人、中国人、朝鮮人で、差別をしていたのに、内山書店だけは平等でした。
昭和初年の「円本時代」をきっかけに内山書店は上海一の本屋となり、当時の売り上げは福岡県の全書店の売り上げよりも多かったそうです。
魯迅との関係は、完造の晩年、魯迅が亡くなるまでの10年間、親友でありパトロンでもあり、ある場合には彼の生命の保護者でさえありました。完造は政治的圧迫を受けた彼の身辺について気を配り、陰に陽に何かと世話をやき、魯迅もまた全幅の信頼を置いていました。
昭和6年、魯迅に勧められて、書店内で日中両国語を交換教授する「日語学会」「一八芸社」を作って親善に尽くし、終戦までの20年間たゆまず日中両国民のかすがい役を果たしています。
戦後、上海から引き上げる20万人の日本人自治会の代表委員を務め、私財を投げ出して引き上げを成功させました。
帰国後は、日中友好協会理事長として、日中友好を叫んで日本全国を2000回以上くまなく歩いています。 昭和34年、過労で倒れると、中国人民対外文化協会は病気療養のため、ジェット機を送って北京に招きますが、9月20日、老衰のため74歳の生涯を閉じました。
墓は前夫人の美紀子と並んで上海にあり、国賓扱いされています。
※肖像は「芳井町観光パンフレット」より転載しました。
※本文は「崑山片玉集」より参照・転載しました。