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山鳴大年生家(やまなりだいねんせいか)

山鳴大年生家

蘭医を志し長崎に留学した山鳴大年は、帰郷してから流行り病の痘瘡(とうそう)で苦しむ人々を種痘することにより救済しました。また学者として郷土の後進の育成にも携わった大年の生家跡が、芳井町に残っています。
※現在、看板は外されています。

基本情報

所在地岡山県井原市芳井町簗瀬
TEL0866-72-1324(問合せ先:芳井歴史民俗資料館)
TEL0866-63-3144(問合せ先:井原市文化財センター)

アクセス

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アクセス

【車】山陽自動車道笠岡ICより北へ35分

【電車】井原鉄道井原線井原駅よりタクシーで15分

駐車場無し

山鳴大年(やまなりだいねん)

1789生~1856没。
山鳴大年は後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町簗瀬)の山成家の第七代政右衛門の次男として生まれました。 母は川上郡九名村(現在の井原市美星町大字明治)阪田家出身です。 大年は姓を特に山鳴と自称し、幼名は豊助、後に奉造と改めました。大年はその号にして、老後は葛翁とも称しました。

幼くして頭脳明晰、特に読書を好み、早くから神辺の菅茶山について漢学を修めました。後に蘭医を志し意を決して遠く長崎に下り、和蘭人(おらんだじん)、その他の蘭学者について最新西洋医学の奥義を究めました。長崎には数年滞在し、故郷に帰り、医者として開業しました。
大年の名声は日に日に高まり、遠くからも治療を乞いに来る者が後を絶たないほどの有様で、名療法により回生の恩を受ける者が多くいました。

また西江原代官所のご用医となり、その信任厚く、その頃流行して人々を困らせていた痘瘡(とうそう)を防ぐため、代官の命により種痘の効を説き(その頃は種痘を受けると牛になるという迷信があった)、村々の人々に初めて種痘を実施しました。
頑迷な当時の人々を説得して天敵痘瘡から人々を救済することがいかに困難な事業であったかは、その時大年が用いた説得用の心得書きによっても窺い知れます。

なお、一方では学者大年は郷土の人材を育てることにも熱心でした。中でも、甥阪田素三郎(後の阪谷朗廬)に漢学を授け、村童大戸郁蔵(後の緒方研堂)の俊才を見抜き、資を投じて医を学ばせました。

交友には名士も多く、中でも頼山陽とは深い親交がありました。
大年は、晩年気ままで静かな余生を送り安政3年(1856)12月24日、71歳をもって他界しました。

※山鳴大年の肖像は残念ながら残っていません。生家の写真は「井原市文化財センター」よりお借りしました。
※本文は「崑山片玉集」を参照・転載しました。